売れないボカロPがインフルエンサーの修行をするに至るまで
2015年2月。
面白法人カヤック代表のKさんの前で、涙している男がいた。
ーそう、私こと戦車であるー。
私はことごとく就職に失敗してきた。そんな自分がなぜYoutuberの運営会社である
U●●M株式会社に入るに至ったかをだいぶ長めに書いていく。
長くなるので今回は第1章「失意の果てに」とする。
その男は、数カ月をかけて大学生活最後の挑戦をしようと制作物などを準備して選考に臨んでいたのだが、最終面接(2回目)にあっけなくカヤックの選考から落ちた。
所詮、売れないボカロPは売れないまま終わるのである。制作物データの入ったCDは面接後、帰途のコンビニのゴミ箱に捨てた。
夢をコンビニのゴミ箱に捨てたようで、とても虚しく感じた。
内定など一つももっていないー。男は焦り、見失っていく。
男はカヤックを諦め、大学から出ている求人票をみて仕方なく就職した。
2015年3月31日の事である。(15年度新卒採用のギリッギリである)
入社した京都の老舗の広告代理店では、数週間後には梅小路公園(知らない方は調べてね)のトイレでひたすらゲロとウンコまみれの便器を洗っていた。むせかえるような汚物の芳醇な香りが衣服にも移り、帰途の電車内では恥ずかしい思いをした。
広告屋とは言いながらも、その実、イベント企画だけでなく実際の運営なども自社のリソース(主に社員)を用いて行うのだ(経費を浮かせる為)。大変ナイスなことに、運営したイベントは酒とツマミを楽しむイベントというものであり、開催期間はゴミと酔っ払いと汚物で溢れ公園内がカオスだった。
なかなかナイスな具合に会社も真っ黒で、社内では結構な頻度で怒声や灰皿などのものが飛んでいた。
男は悟った。
「俺は就職に向いていない。そうだ。地元の長野県に戻りマタギになろうー」
男は入社3カ月目にして京都の広告屋を辞めた。新卒カードをドブに捨てたのである。
「なりたいものなどになれることはない、そんなものは虚像に過ぎない」。
そう考えながらも、心のどこかでは諦め切れずチャンスを探していた。
男は地元に戻り、マタギになるための資格や資金を蓄えるために、地元のコンビニサラダ用の野菜カット工場でバイトをはじめた。
バイト先を紹介して下さった人材派遣会社の営業さんが「こいつ、絶対このままマタギになれるわけがねぇ」と思ったのか、再就職できそうな会社を探してくださった。
2016年1月。
男は結局、町工場のプリンタメーカーに再就職した。
人材派遣の営業さんに紹介いただいたのは、BtoB向けの特殊印刷用プリンタメーカーだった。
平たく言うと「ト〇ビアの泉」でも紹介されたような、塔婆印刷用プリンタ(ほんとにあるんだぞ)とかTシャツ用プリンタとか、かなりユニークなプリンタを作るメーカーである。
男は馬鹿なので思った。「面白そう!これ売っていこう」
男は地元で就職するものと勝手に考えていたが、採用条件は東京の支店勤務だった。
「東京に出ればすこしはチャンスもあるかもしれないー」
安直すぎるが、男は馬鹿なので特に悩むこともなく、東京に移り住み仕事をした。
「下町ロケット」にあるような人情味溢れる職場で、大変うれしかった。
しかし気がかりなこともあった。社内の平均年齢が45歳なのである。私の上司である営業のエキスパートのお方は、私が入社したとき、既に59歳だった。
親父(59)と息子(22)みたいな年齢差だったが、大変楽しく仕事が出来た。
営業としてモノを売ることの基礎を教えてくださった方である。
東京中を歩き回り、飛び込み、出待ち押しかけ、DM、テレアポ、なんでもした。
人とのつながりや信頼関係の構築について学び、それが売り上げとして返ってくる面白さを実感した。
だが男は1年後にはっと気づいた。
「長野県水準の給与では、東京でこれから生きていくにはちと厳しいー。」
「俺の本当にやりたいことってなんだっけー。」
第1章「失意の果てに」 オワリ
第二章「営業しながら、めっちゃ会社面接に行く」につづきます。